瓢箪山稲荷神社の辻占(その1)

明治維新を経て文明開化の世が到来し、旧来の占いが迷信として排斥される中、辻占は大阪の瓢箪山稲荷神社で繁栄を謳歌した。社伝によれば、ここには山畑古墳群中最大最古の6世紀古墳時代後期の双円墳があって、昔から「瓢箪山」と呼ばれていた。天正11年[1584]豊臣秀吉が、大阪城鎮護の為片桐且元に命じて城の巽(東南)の方角に当たるこの地に稲荷社を勧請した。その後大阪冬の陣の戦いで社殿は焼亡したが、村民達の手により天保6年[1835]に再建された。元治元年[1864]、石川から来阪した飯井半助は、瓢箪山の辻占で「飲食物の商いが良い」との啓示を受けて道頓堀に料理店「丸萬」(「魚すき」で有名だった)を開店し、その後大成功を収めている。明治初年に同村西光寺の山畑顕海(阿良美)がこの神社の宮司となり、新たに独自の『辻占』を創始するに及び、瓢箪山稲荷神社と、「弾正の辻」の辻占をルーツとするこの地方の辻占とが、決定的に結び付いた。瓢箪山式の辻占とは一体どのようなものか。それは次回にて。