瓢箪山稲荷神社と辻占占紙 その1

辻占占紙の成り立ちは大阪と東京とでは大きく異なるため、まず先に出現した大阪の状況から述べる。大阪の辻占占紙には、瓢箪山稲荷神社が大きく関わっている。同社の社報『瓢山 第十四号』(平成4年)で紹介されている現宮司へのインタビュー記事によれば、明治時代初めの宮司が神社まで来られない人のために考えた独特のおみくじを持って各地を回り、全国に『辻占』の名が広まったとある。瓢箪山稲荷神社の辻占占紙は、まず教宣活動の道具として生み出されたのだ。
では、その時期はいつか。明治政府は明治5年以降、文明開化の下、旧弊を一掃し風俗を改良しようと、現在の軽犯罪法に当たる『違式註違条例』を各府県毎に制定しているが、明治9年に制定された大阪府の違式註違条例を見ると、「註違罪目」の中に「売ト又は辻占ト唱へ吉凶ヲトフ者」という条文(第二十条)がある。東京の違式註違条例にはこの条文がないことから、この第二十条は瓢箪山稲荷神社をひかえて辻占が盛んだった大阪の地域事情を反映していると考えられる。この「辻占ト唱へ吉凶ヲトフ」事に占紙販売が含まれるかどうかははっきりしないが、明治15年2月10日付の『大阪朝日新聞』には瓢箪山の占紙を売る辻占売の記事が出ているので、少なくてもその時期までは遡れそうだ。記事によると、「河内瓢箪山辻占屋(「辻占屋」=辻占売)でござい」とミナミの花街を売り歩いていた老爺が、妊娠を装った娼婦(内縁関係にある)にまんまと騙されて手切金6円を払わせられている。彼は明治10、11年頃瓢箪山稲荷に参籠しその後辻占屋になっているが、6円という金をすんなり用立てたところからある程度の財産を持っていたことがわかる。辻占屋をしていたものの、後の世に見られるような貧窮生活は送っていない。おそらく彼は、占紙の販売を通じて瓢箪山の教宣活動に協力していた奉賛者だったのだろう。