『大鏡』に見る夕占、道占、辻占、夕占

大鏡』五巻に、藤原兼家の妻・時姫が若かった頃、二條の大路に出て夕占をした逸話が出てくる。それによると、道を一人で歩いてきた白髪の老女が彼女の前で立ち止まり、「なにをしておいでですか。もし、夕占をなさっているのですか。何事も思い通りに願い事は叶い、この大路よりも広く長く子孫はお栄えになりますよ」と話掛け、去っていったという。彼女は後に、占いの通り、三条天皇の母となる超子、一条天皇の母となる詮子、いずれも大臣となる道隆、道兼、道長を産んだ。長男の道隆が生まれたのは天暦7年[953]の事なので、夕占が行われたのはそれより前の約十年間、即ち天慶年間後半から天暦年間前半の間だろう。この逸話は「人ではなく、神様が運命をお示しになったのでしょう。」という語り部の感想で締めくくられているが、当時は神霊がこのような形で出現すると信じられていた。

  • 道占、辻占、夕占

『往生要集』を著し、後の浄土信仰に強い影響力を与えた恵心僧都源信にも、辻占のエピソードがある。『沙石集』巻第十にはこうある。

恵心僧都も往生の事頼りなく不確実に感じて、道占をしようと雨中、造道四塚*2辺りの少し高い所に立って通行人を見ていたところ、老翁が悪路を滑り滑り歩んで、僧都が立っているところまでくると「極楽へ参った」と言った。これにより僧都は往生は確実であると、心強くお思いになったのだろう。『往生要集』を撰して、唐朝にまでその名を知られ、目出度く往生なさったともうします。

『今昔物語』には、村上天皇の治世(天暦〜康保年間[947-967])に玄象という琵琶が宮中より盗まれ、羅城門の楼上で鬼が弾いていたという話が見えるが、京の南の入り口である羅城門は異界の入り口でもあった。源信が『往生要集』を書き始めるのは永観2年[984]の事なので、このエピソードはそれ以前の出来事といえる。文中に時刻を推定させる描写がないので、この「道占」は「夕占」とイコールであるとは言い切れない。ただ、辻で行っていたことは明白なので、「辻占」と言い換えることは可能であろう。『沙石集』が成立したのは、鎌倉時代後期の弘安6年[1283]。源信が実際に道占を行った時に、それを「道占」と呼んでいたかは不明である。
和歌に「道占」とおぼしき表現が登場するのは、源俊頼*3の私家集『散木奇歌集』(大治3年[1128]頃)に於いてで、次のような歌がある。
「郭公声待ちかねてゆふけとふ道のうらにもことよきものを(ほととぎすの声を待ちかねて夕占をする。道の占いも良いものであってほしい)」
この歌では「ゆふけ(夕占)」を「道のうら(道の占)」と言い換えている。

*1:文徳天皇後一条天皇の14代176年間の歴史を記した歴史物語

*2:つくりみちよつづか。羅城門辺りにあった辻で、現在、京都市南区に八条四ツ塚町という地名が残っている。

*3:天喜3―大治4年[1055-1129]