平安時代後期の夕占

平安時代後期になると夕占の占法に変化が起こり始め、占いの際に黄楊の櫛を使うようになる。
『久安百首』(久安6年[1150])の崇徳院*1の御製
「さしぐしもつげのはなくてわぎもこがゆふけのうらをとひぞわづらふ(挿し櫛はあるが黄楊のが無いため、夕占の占いをしようとしている彼女が困っている)」
黄楊の櫛は、占いをする時に神が正しく告げてくれることに掛けて使われるようになったと思われるが、この歌から当時重要な道具であったことがわかる。しかし、永観年間以前に道占を行った恵心僧都が僧侶の身で櫛を携えていたとは考えにくいので、この習俗が発生したのは十世紀末以降と見るのが自然である。
藤原清輔著の歌学書『袋草紙』(保元3年 1158)には次のような歌がある。
『袋草紙』 誦文歌
「ふなとさへゆふけのかみに物とはば道ゆく人ようらまさにせよ(衢神*2、夕占の神に占いをするから、道行く人よ占いを正しく告げよ)」
この歌は後世夕占をする際に唱えられたが、「誦文歌」の項に収録されていることから、この頃既に夕占の呪文として使われていたのかも知れない。「ふなとさへ」について伴信友は、「衢神のことである。古事記には『イザナギノ大神が黄泉国から帰って御身を洗滌された際に、投げ捨てられた御杖より生まれた神の名は衝立船戸神*3』と見え、また神代紀の一書には、『同神が黄泉国よりお帰りになる時に、此より過なし*4と仰って其の杖を投じられた、これを岐神という(岐神は布那斗能加微*5という)』とあり、又一書に、『其の杖を投じ、此より此方に雷は敢えて来ない*6、これを岐神といい、この本名は来名戸之祖神*7と号する』とある」と、述べている。異界から来て夕占のお告げをする神霊を衢神と結びつけたのは、『袋草紙』の歌が最初である。

*1:元永2―長寛2年[1119-1164]

*2:ちまたのかみ

*3:つきたてふなどのかみ

*4:「過なし」の読みは「くなと」

*5:ふなとのかみ

*6:「敢えて来ない」の読みは「えくなと」

*7:くなどのさへのかみ