複雑化する夕占

  • 複雑化する夕占

鎌倉時代に入ると、夕占は複雑な呪術として化していった。平安末期の算博士三善為康の撰と伝えるが実は鎌倉末期に編纂された辞典『二中暦』の九巻呪術の項に、夕占の記述がある。

「ふなとさへ ゆふけのかみに ものとはば みちゆくひとよ うらまさにせよ」という歌を三度誦して、堺を作り米を散らし、櫛の歯を三度鳴らす。後堺の内に来る人若しくは屋内にいる人の言語を聞いて吉凶を推定する。

『袋草紙』の歌を三度唱えるのは、岐神を招くためであろう。「堺を作り米を散らす」ことは、「占いをする衢の範囲を心の内で定めて、その境に米を撒く」ことを意味している。この米を撒く行為は、邪神を祓う術で中世の諸書にも見え、昔からの方法と言われている。また、「櫛の歯を三度鳴らす」とは、岐神を迎える儀礼で、その後に境の内に入ってきた人が語る言葉を神が告げる「御言葉」と見なして吉凶を推定するのである。
ところで通常夕占は戸外で行われ、そこから「屋内にいる人」の言を聞くことは物理的に不可能なのに、なぜ『二中暦』でこのような記述がされたのだろう。もしかすると、これは中国の「響ト」の影響なのかもしれない。「響ト」には夕占のように戸外で人語を聞く方法と、屋内で人語を聞く方法の二通りがある。澤田瑞穂の『響ト考』*1には次のような話が紹介されている。

苗耽というもの、進士に及第したものの、洛中に閑居したまま年を経た。貧窮に堪えず、将来の運命を案じて響トをしてみようと思い立った。そこで家人に命じて家の一室を清掃させ、几を設け香を焚き、束帯して笏を手にし、端座して人の一言を待っていた。しかし家は僻地にあったため、久しく待っても人の声が聞かれなかった。日が暮れかけて、干物を売る商人が訪れた。彼は心を静めてその言を待っていたところ、家の召使が魚屋をよんで家に入った。しかし実は銭は一文もなかったので、長く待たされたのに買ってはもらえなかった。おまけにその干魚は少しばかり切り取られていた。魚屋怒って罵る―「乞索児(こじき)め、くたばれ。なんでおれをこんなに待たせやがったんだ」と。(『太平広記』*2巻四九八「苗耽」の条*3

『響ト考』での紹介はここまでだが、『太平広記』を更に読むと、苗耽は後に外出先で急病に罹り立ち上がれなくなってしまうが、通りかかった行商人から安く棺桶を手に入れ、それに入って帰宅する。その後やっと日の目を見、江州刺史にまで出世したとあるから、結局彼の響トは的中したのだろう。
『二中暦』の撰者は夕占を記述するに当たり、このような響トの占法と辻占の占法を混同してしまったようだ。

*1:澤田瑞穂『中国の呪法』平河出版社 昭和59年に収録

*2:宋の説話集 978年成立

*3:『玉泉子』<唐・無名子 撰>より引いた話