辻占と辻易者

  • 辻占と辻易者

寛政元年[1789]、新井白蛾は随筆『闇の曙』で当時の俗信を厳しく批判しているが、辻占については次のように述べている。

辻占といふは、むかし婦人子供輩の翫びし事也。拾芥抄などに見へたり。今神社仏寺などの門前、或は川辺などに出てうらなひをする者の事にはあらず。
当時道の傍に出て占ひするものども、自ら易者などゝいふは、誠に猿に金の烏帽子よりも猶おかし。

加賀藩の藩校「明倫館」の初代塾頭で「易学中興の祖」である白蛾にかかっては、辻占も「婦人子供輩の翫びし事」に過ぎないのであろうか。かつて路傍で易占をする者を「辻占」と呼ぶことがあったが、この記述からその呼称が既に寛政元年には使われていたことがわかる。辻易者という職業がいつ頃から出てきたかは定かでないが、元禄から明和にかけて活躍した街の易占家平沢随貞が、駆け出しの頃巷に出て占いをしていた*1ようなので、18世紀初頭には既にいたようだ。易占家も大家になれば自宅に依頼者が訪れるだろうが、知名度のない内は人通りのある所に出て行ってお客をつかまえないと生計が立てられない。また、辻で占いをしようとする者にとって、通り掛かる者の人語を聞いて自分で判断しなければならない「辻占」と、中国伝来の易学に基づいて専門家が占ってくれる「辻易占」と、どちらが心強いかといえば、もちろん後者である。そこで、従来の辻占に代わる占いとして、辻易占が親しまれるようになり、占いのおこなわれる場所からこちらも「つじうら」と呼ばれるようになったのではないか。そしてそれを行う者も。また時として、それらには「辻占」という字に代えて「辻筮」という字が当てられたが、むしろこちらの方が本来の意味に沿っていると思う。

*1:参照:紀藤元之介『日本の占い予言者』[『歴史読本臨時増刊・占い予言の知恵』人物往来社 昭和50年12月]に収録