瓢箪山稲荷神社の辻占(その2)

『文芸倶楽部第十一巻第十三号』(明治38年)に、番衆浪人というペンネームの者が『辻占本家河内瓢箪山』という題で、明治20年代後半の辻占体験記を寄せている。長文だが当時の様子が生き生きと描かれているので紹介したい。

(前半部は略)忘れもせぬ、時は丁度正月の十日過、まだ七五三縄の取れぬ松の内、大阪の町をあとにして、城南練兵場を左に見、玉造へとかかつた。もとよりこの時分は四條畷までの汽車がなかつたから、瓢箪山まで四里の野道を、歩かねばならぬといふ御難だ。
 しかし、車はどこにもある。苟しくも一日に、数百金のとりやりをするものが、高くて七十八銭から一圓の車代を吝んで、歩くなどといふ筈はないのだが、これには頗る理屈があるので、車でがらがら楽をして行つては、今夜の辻占の正鵠を得ることは覚束ない。身をこらし、あゆみを運んで、と壺坂のお里気取りの迷信の果てが、足弱の若旦那、駒下駄で四里の野道を歩くこととなつた。
 思ひ立つたのが、後場引けてからだから、大阪をはなれると早四時すぎ、馴れぬ旅路も凄まじいが、とにかく道ははかどらないで、御厨といふ小村で日は暮れた。あとから聞けば、ここは友人武田仰天子君の故郷ださうだが、申すも悪いが、まことに小さな野中の村、頭の中には金の事ばかりより外はない僕も、冬の夜風の肌をさして、道の辺の墓場などに、鴉ががアがア鳴きたてた時は、何だかいささか荒寥たる感にうたれた。
 向ふに見える赤の鳥居、これが瓢箪山のお前立だ。もう直だらう、と勇を鼓して、鳥居をくぐつて行けども行けども、それと思ふものは少しも見えない。水たまりが凍つて、寒月が凄く映つてゐる野道を、コツコツと歩いて行くと、ドツと吹き来る木枯らしに、枯葉はバラバラと帽廂をたたいて、厭な夜であつた。
 やがて一筋道の堤になつて、向ふにちらちら火影が見えた。ヤレヤレまづは行き着いた、とチヨコチヨコ走りに行つて見ると、いかさまここがたしかにそれ、名詮自称の瓢箪形の山が、黒く面前に横はつてゐる。
 石の鳥居をくぐつて、前に申した二軒の中、丸万といふ小旗亭にまづは上つた。
 「お出やす。」
 と馴れたもので、
 「どうぞ、お二階へ。」
 と厭な白首が案内をする。二階と云つても極めてお粗末、畳ゴソツク四畳半へ通されて、ドツカリ坐るなり、
 「酒をくれ。」
 と命ずると、かの女は、
 「ホホホ。えらい忙しないボンチや。」
 とほざく。
 「何でも善い。肴は何がある。」
 「鱧のすきだす。」
 「ハハア。名が丸万だから、魚ずきか。何でも早い方が可い。」
 「ヘイ、ヘイ。」
 とドタバタ下りて行く。
 やがて、焼豆腐に葱を添へて、平ツたい皿に鱧の骨切、まづここでジリジリと初める。女は酌をしながら、
 「ボンチ、辻占聞きなはるのか。」
 「さうだ。」
 「運気だつか。縁談だすか。」
 彼女頗る追窮する。まさか、相場の高低をトするともいへないから、
 「縁談だ。」
 といふと、
 「重たいこツちや。これやおまへんか。」
 と三味線引く手つきをして見せる。僕は笑つたまま答へないで、
 「姐さん。ここの辻占はよくあふかい。」
 「勿体ない事いひなはんな。」
 とその女大得意で、
 「ここの本家も、この稲荷さんのお蔭で出世しやはつたんだすぜ。そらもう、浜のジキや皆たんと来やはりまつせ。」
 浜とは堂島の事で、ジキとは相場師のことだ。彼等玄人でも、この神託を聞きに来るのかと、ここ一寸心太くなつて、
 「さうかい。其辻占は此堤の上を行く人の口占を聞くのださうだな。」
 「イイエ。人やおまへん。」
 かの女、頗る真面目だ。
 「人ぢやない、何だ。」
 「眷属さんだす、狐はんだす。」
 云つて得々たる風を見せる。
 「ホホウ、さうかい。狐が通るのかい。どんな姿で…やつぱり、コンコン云てかい。」
 「あほらしい。そら、男はんに化けたり、娘はんに化けたり、色々になつて通りはります。」
 「さうかい。それでどうして辻占を聞くのだ。」
 「向ふのいうて行くことを聞いて、明日の朝、神主さんに、判断してもらふのだす。」
 「さうかい。よし、これからそんなら、聞かう。」
 と立上ると、かの女は、眼を円くして、
 「あんた。まだお酒もおますし、御膳もたべなはらんのに。」
 「さう、さう、さうだつけ。」
 とこれから、酒を好い加減に切り上げて、飯もそこそこ、この丸万を飛出したが、風が相変らずドウドウと吹いて居て、骨に徹するほど寒い。
 さて、其辻占を聞く場所は、豫て聞き及んだ鳥居の下、人の眼に着かぬ所にしやがんで、今の女が所謂眷属様が、何に化けて御座るかと、グツト堤上を睨んだ所は、われながらおどけた見得だ。
 夏の夜ならば勿論のこと、春か秋の夕でも、人通りは相当にあつたかも知れないが、時は今陰暦十二月、まして寒風木の葉を捲いて、耳も千切れんばかりの此冬夜に、よしや色に渇したる在郷の若者でも、富田林へ達磨を買ひに行く勇気がないのか、人はおろか、狐はおろか、小猫一匹通らない。
 夜はだんだんにふけて来る。酒はすつかり醒めて了つた。寒さは針でつかれるやうに、チクチクと肌を刺して、今は此好奇なる風流も、どうも堪へられぬと思ふ途端。
 嬉しや人声!すりやこそこれが眷属様かと、寒さを忘れ、息を凝して、ヂツト堤上を見上げて居ると、追々近づく人の足音、それが一人ならず二人連である。ホイ、これは御丁寧に、お二頭連れの眷属様、一言一句聞洩さじと、耳をすまして聞いて居たが、情無いことに彼等はただ足音ばかり、無言でスタスタ歩くのだ。
 申し申しこれは、と落胆したが、せめて一声聞きたやと、こけが時鳥を待つといふ見得で、ジリジリと身をのして、見送る途端、
高井田もう何程ほどあるやろ。」
 「さうやなあ。もう大してあれへん。」
 「早う行て宿らう。」
 「さうや。」
 聞き得たは唯これのみ。それも神の御使が、人の口を仮り、否、人に化けて仰しやつたかと思ふと、此平々凡々の二三句も、何だか有難い様にも覚えて、宿へ帰つて、又酒を呼び、床の中にて「高井田まで」と再三再四繰返して、さてとろとろとあまり穏ならざる夢に入つた。
 煎餅蒲団に一睡の夢覚めて、破れ障子より旭日赤赤とさし入る頃決然とおき立ち、顔を洗つて、朝飯も食はず、急ぎここより僅四五間先の、社務所とは名ばかり神官殿の御座所を訪うた。
 流石は稲荷様のお給仕をなさる神官殿、もう早チヤンと起きて御座つて、白髯いかめしき一個の老翁、白紋羽のお召しに紫メレンスの袴、黒金巾五所紋の羽織といふいでたち、ハハア、朝ツぱらから、亡者がといはぬばかりに僕を一睨め。
 「一寸御願が」と道を尋ねる様な口吻でヌツと這入ると、向ふ様は先刻御承知で、
 「判断ですの。」
 と的中の仰。
 「ハイ、左様で。」
 とまづ尻を据ゑて、さて昨夜からの一部始終を申すと、老翁首をひねつて、
 「それで、其二人は堤をどつちへ行きましたかい。」
 「ハイ。あの、左へズンズン。」
 「成程、それで、高井田で宿る。フン、よしよし、分りました。」
 やがて、老翁眼鏡をかけて、机上の古書をひねくつたが、やがて、
 「運気を見さつしやるのぢやな。」
 「ハイ、株券の上り下りを。」
 と云ひたかつたが、どうも何だか、いひそびれて、
 「ハイ、左様で。」
 と云つて退けたが、そこがまだ世馴れぬボンチ気質。
 「エエ、堤に向つて、左の方は、南の方角に当ります。凡て北の方は陰、南の方は陽、その陽に向つて二人まで行つたのは、これは真実に可い辻占ぢや。またも一つは、高井田で宿る。これか又至極宜しいぢや。南の方陽気のある方の高井田で宿るといふのは、凡てもうあなたの運がこれからズツト開けて、出世をなさるのぢや。何でも思ひ切つて、奮発が肝心ぢや。」
 僕は「あツ」と呆れて、一言半句も出ない。白髯翁の仰しやる所、少しも無理は無いのであるが、あまり事実が直覚すぎて、これでは判断と申すより、少し地口の調子がある、と思ひましたが、イヤナニ、これも稲荷様が、少し酔狂で仰しやることと諦めて、僅ばかりを紙に拈り、そのまま社務所を飛出した。
 さても其後、初場の手も余り合はず。買つた大鉄が「高井田」所か案外「低いだ」となつて、一向運気が開けもせず、住み馴れし大阪をあとに、東の京にさすらふ身となつたが、思へが決して稲荷様をお恨み申す筈はないので、夢は逆夢、世は転倒事、辻占のうらも裏表の裏にとつたら、こんなはめにも成らなかつたにと、下らぬ愚痴をお笑草、一條あらあらかくの如し。

ここに見える瓢箪山式の辻占の特徴としては、

  1. 夕占と同じく宵の口にかけて行われる。
  2. 鳥居の下、人の眼に着かぬ所にしゃがんで、堤上の通行人の言葉を聞く。    
  3. 堤上の通行人は、実は稲荷の神使である狐が変化したものである。
  4. 吉凶の判断は翌朝瓢箪山稲荷の社務所にいる神官が行う。
  5. 聞いた会話の内容、通行人の向かった方向が判断のポイントになる。

の5点があげられる。狐が堤上の通行人に化けて吉凶を告げるとしているのは、古代人が神霊が辻に現れ未来を告げると思っていたことと根は同じである。明治初年より政府は欧米の開化思想の普及に努め、迷信を排撃してきたが、明治20年代末の時点では前近代的な信仰が庶民に堅く信じられていたことがうかがえる。また、筆者と茶屋の女との会話から神社が「出世神」的性格を有していたことがわかる。瓢箪山稲荷神社の繁栄は、明治の立身出世ブームに支えられていたのだ。