辻占の変容、江戸時代の和歌と「夕占」

  • 辻占の変容

昨日まで、占いとしての「辻占」の歴史を見てきた訳だが、その占いの呼称が、なぜ「偶然起こった物事を将来の吉凶判断のたよりとすること」や「紙片に種々の文句を記し、巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもの」に使われるようになったのか?そのヒントを江戸時代の文学作品の中から探してみたい。

  • 江戸時代の和歌と「夕占」

まずは、万葉集からの流れを引く和歌。こちらでは、江戸時代になっても相変わらず「夕占」という呼称を使っている。伝統を重んじた結果なのか、それとも形式主義に陥ったのか。いずれの和歌も中世の歌同様、夕占に対する期待、失望、恋心が詠われており、中身は変わり映えしない。

1.武者小路実陰*1の私家集『芳雲集』(宝暦10年[1760])占恋
「更けぬるに待ちえてしがな夕けとふうらにもよしと頼むよの空(夜が更けていくのにとかく待ちたいものだ。夕占の占いにも吉が出て、当てにする夜の空)」
「まてといひしころ過ぎぬれば又いつとしらぬ夕けのうらみてぞとふ(待っていてと言った頃を過ぎたので、又いつ来るか当てられない夕占を恨みながらも占ってしまう)」

2.加納諸平*2の私家集『柿園詠草』(嘉永7年[1854])祈恋
「かげふかき檜原はしるや椿市のゆふけにかへてこもるおもひを(かげふかい檜原の人は知っているだろうか椿市の夕占に代わって込める私の想いを)」

3.井上文雄*3の私家集『調鶴集』(慶応3年[1866])占恋
「思ひかね夕けをとへばもどり橋もどかしくのみ人ののりゆく(相手を思いかねて夕占を問えばひょいと戻ってくる。戻り橋で「もどかしく」と通行人が告げたように、私はもどかしい気持ちでいっぱいだ)」

*1:寛文元―元文3年[1661-1738]

*2:文化3―安政4年[1806-1857]

*3:寛政12年―明治4年[1800-1871]