『街の姿』と辻占菓子

  • 『街の姿』と辻占菓子

明治期に活躍した玩具蒐集家の清水晴風は、幕末の行商人の絵姿を『街の姿 江戸篇』(太平書屋、昭和58年)に描き残しているが、その中に辻占菓子を行商する者がいた。
・辻うら売  淡[路]島通ふ鵆(ちどり)、恋の辻うら、辻うら豆[と]、呼で売来る者、今も又絶へぬものなり。
・お豆さん  四文のお豆にほれられて云々。安政の頃、此お豆さんとて、辻占入の豆を袋に入、壱ツ四文ヅヽにて商ふ。此者、元、都の芸者の馴の果にや、言葉優しく、最美人にて、尼の姿にやつし居さま、奥床しといふ。
また、三谷一馬『彩色江戸物売図絵』(中公文庫、平成8年)の中には、辻占紙片の入ったかりんとうを売る者が紹介されている。『街の姿』でも、「赤き大てうちんに、深川名物山口や、かりん糖と書たるを携へ、毎夜、町中至る所、此者を見ざるといふことなし。深川六間堀、山口屋にて売弘め、流行せしものなり」とあるが、この山口屋のかりんとう売りは天保6、7年[1835、6]頃から明治35年頃まで活動しており、かりんとうを8文から24文位ずつ袋に入れて販売したとの由。売り声は「かりんとう、深川名物かりんとう」から、明治になると「淡路島通う千鳥の恋の辻占、辻占なかのお茶菓子は花の便りがちょいと出るよ。こうばしやかりん糖」へと変わり、明治33年頃には「深川名物ー。甘いーや。カリンー糖」と引っ張ってから、「本家山口屋カリン糖」と語気をつめる呼び方になったという。山口屋のかりんとうの中に辻占の紙片が入るようになるのは、明治よりは前のようで、国立歴史民俗博物館に江戸時代後期に描かれた『夕涼市中の賑ひ』という錦絵があるが、ここに「本家山口屋かりんとう」の提灯を持ち、「辻占」と書かれた箱を肩から掛けた行商人の男が描かれている。