開国と辻占菓子

  • 開国と辻占菓子

鎖国から開国へと国策が転換し、欧米との交流が盛んになっていくと、辻占菓子も国際化の波にさらされるようになる。明治8年8月29日付の『讀賣新聞』には、西洋の辻占菓子を入手した者が次のような投書を寄せている。

私が此間西洋の辻占菓子を貰ひ開いて見ましたが横文字にて分らぬ故翻訳して貰ましたら『わたしのこころが、あなたのこころに、叶ひましたら、母さんへ咄して見ましやう』とありましたが西洋の娘たちは常々母が能教へます故色事などにも自分の気まゝにはしませぬことゝみえて能ことであります付ては我国の辻占煎餅などには甚しい色ごとのことが書てありますし又流行唄などにも淫奔ごとを無暗に作ツてうたはせますが大きに娘たちの風俗に関り誠に宜しからぬこと故其筋の御役所より御差止になりたく又親々は娘御達に此様なものは見せも聞せもせぬやうになされたいといふ者は 浅草浣花翁

浣花翁は「西洋の辻占菓子」を引き合いにして日本の辻占煎餅の紙片の文句にケチを付けているが、当局は彼の提案を採用しなかったようだ。その後作られた辻占尽を見てみると、以前のものと内容に大した変化はない。ところで彼が入手した西洋の辻占菓子とは、どういったものだったのだろう?入手したシーズンは夏場だから、次で紹介する新年用の辻占菓子とは違うと思うが。
両国風月堂は明治11年12月25日の『郵便報知新聞』に「新年辻占パピヨ」の広告を出した。そこには「此品は西洋各国にて新年宴会の折戯むれに供するものにて至極面白きものなり」とあり、別頁には「新年辻占菓子は即ち彼の祝日用品にて咀嚼の余興を添へたる一種の奇品と云ふ可し」という解説が出ている。「咀嚼の余興」とは、中に紙片が入っているのを知らないで菓子を食べた者がびっくりする事を指しているのだろう。この「パピヨ」は現在風月堂で売られている「パピヨット」の祖型と考えられるが、今日店頭で「新年辻占パピヨ」を見かけることはない。販売は失敗したのだろうが、日本人が西洋の辻占菓子に取り組んだ貴重なエピソードといえる。
さて日本人が西洋の辻占菓子に取り組む一方で、日本に来ていた西洋人は日本の辻占菓子についてどのように思ったのだろうか。東京大学で教鞭を執ったE.モース(動物学担当。大森貝塚の発見者)は著書『日本その日その日』の中で次のような一文を残している。

米国にもあるが、日本にはある種の格言を入れた菓子がある。図754は三角形の菓子の中に入ったものを示す。これは糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生薑の入っていないジンジャースナップ[生薑入の薄い菓子]に似ていた。格言を意訳すると「決心は巖でも徹す、我々が一緒になれぬことがあろうか」となる。これを訳した団氏は私に、これ等の格言が普通恋愛や政治に関係があることと、これは昔から行われつつあることとを話した。私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛を見たことを覚えている。
[『東洋文庫179 日本その日その日3』(平凡社、昭和46年)P.199より]

文に添えられた挿し絵には「第七十七吉 おもふねんりきいはをもとほす そふてそはれぬことはない(想う念力巖をも通す添うて添われぬ事は無い)」という都々逸を書いた紙片と、谷保屋菓子舗のものに似た形の菓子が描かれている。モースが幼時に目撃した菓子が欧州起源のものなのか、それとも米国起源のものなのかは不明だが、当時の米国に類似の菓子があった事は間違いない。彼の記述は明治15年のものだが、文中に出てくる「団氏」とは、後に三井財閥総帥となる團琢磨の事だろう。團は米国のマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、11年に帰国すると大阪専門学校で物理・化学・数学などを教えている。14年10月には東大星学科教授H.M.ポールの要請により星学科助教授に就任していて、彼がいた天文観測所の裏にモースの宿舎があった。團は米国留学を通じて語学が堪能だったため、ご近所のモースから紙片の翻訳を頼まれたのだろう。その後、彼は17年に工部省鉱山課に転じて三池炭坑で石炭増産に取り組み、それがきっかけとなって三井入りしている。[参照:松村巧『近代日本雑学天文史』平成3年、P.28-29]モースは辻占菓子について淡々と記録しているが、その姿勢は道学者ぶった先の浣花翁のものと好対照である。