辻占昆布の道

  • 辻占昆布の道

明治12年に書かれた河竹黙阿弥の『人間萬事金世中』の中に、辻占昆布の行商人が登場する。

花道より千之助散切鬘(ざんぎりかつら)襤褸装(つづれなり)藁草履にて、辻占昆布の入りし箱を肩に掛け出来り、
千之 「辻占昆布ぢや、板こぶぢや、頭を打たれていたこぶぢや」ト呼びながら門口へ来て内を覗き「若旦那様、それにおいでヾござりますか」
林之 千之助を見て、「おヽ千之助か、よく商ひに精が出ますの」
くら 「あの子はたしか仙元下の」
林之 「わしを育てた乳母の孫、高島町へ辻占こぶを、毎日売りに行くとのことぢや」
くら 「てもまあ、それは感心な、どれお品さんへ内證で、お菓子を持つて来てやりませう」

この後、千之助は乳母が長患いに罹ったため辻占昆布を売って生計を立てているが借金はかさむ一方、昨夜も高島町で夜通し売って歩いたが4銭か5銭の儲けにしかならなかったとこぼし、若旦那の林之助に援助を求めている。横浜の高島町遊郭街が出来たのは、明治5年。実業家で易学家でもあった高島嘉右衛門が、新橋−横浜間の鉄道敷設に際して、港崎の遊郭を造成した埋め立て地の一角へ移転させたのが始まりである。高島町は新興の色街だったのだ。
明治初めの東京の辻占屋は、辻占煎餅や辻占豆、辻占入りかりんとうなどを扱っていたが、この作品に出てくるのは関西方面で好まれた辻占昆布。当時東京経済圏の外港として栄えていた横浜に、これがなぜ登場することになったのだろう。黙阿弥によるフィクションなのか?それとも事実なのか?
当時の東西の最短ルートを調べてみると、明治22年に東海道本線が全線開通するまでは、東京から横浜までを汽車で、横浜から神戸までを汽船で行くのが一番早かった。横浜港は関西への入り口でもあったのだ。高島遊郭では関西からの泊まり客や水夫をもてなすために、わざわざ大阪風の辻占昆布を用意したのではないだろうか。
この仮説を補強する記録がある。明治24年10月21日付の『東京朝日新聞』に「小樽の淫風」と題して、以下のような報告が掲載されている。

小樽より札幌への発車は午前六時同十一時及午後五時の三度なり小生は午前八時の汽車にて札幌を出で十時に小樽に着したり用事は一時頃に済たれば外に詮方もなく停車場裡待合室にて五時の来るまで新聞なりとも見て居らんと思ひしが其間四時の待合余り退屈なれば二時ごろ近辺を散歩せんと停車場を出で町の四ツ辻に寿しと記したる看板を上げて一寸小奇麗の家ありこヽで暫らく休まんと這入たり一寸小意気な別品出でヽ切に上れといふ上りて奥に入ればお酒を召上るかと問ふ否酒は飲ず予はすしを喰ふ積りなり出来て居るなら持て来よと命じたり今寿しの出来合なしお茶菓子なりと持て参らんかといふ茶菓子とな夫も妙ならずそれでは酒を一本持て来いといひ不図女の顔を見れば白粉コテと塗り頗る的の怪物なりさても大変と思ふて怪物の為す所を見るにやがてかき餅に辻占昆布といふ大阪風の下物(さかな)を添へて酒を運んだり一杯を傾れば芸者はいかがと勧むナニ予は汽車待合の為に立寄りたる迄なれば芸者を呼でも仕方なし殊に最早時間もなければ又の事にせんと云しにそれではお床を敷んといふ其面平気の平佐なり是には全く大驚いたし候(以下略。一部漢字を現漢字又は平仮名に書き換える)

要するに汽車の待合時間に入った「寿司」屋が実は私娼宿だったという話だが、ここに「かき餅に辻占昆布といふ大阪風の下物を添へて酒を運んだり」という下りが出てくる。「かき餅と辻占昆布」が大阪風の酒肴で、しかもそれが北海道にあるのだ。小樽と上方との間には古くから北前船を通じて交流があり、そのため大阪風の酒肴が現地で使われたのだろう。『人間萬事金世中』の横浜でも、おそらく同様な事が起きたのではないか。