辻占菓子売の受難

  • 辻占菓子売の受難

明治35年を過ぎる頃から、一部の辻占菓子売が消え始める。三谷一馬『彩色江戸物売図絵』によれば、幕末より続いた深川の山口屋の花林糖売がこの頃消えたようだ。また、明治41年9月10日付の『菓子新報』では、「都下 昔あつて今無い菓子商人」の一つに、辻占容器入りの「砂糖煎金時」屋を紹介している。「近来は見ること甚だ稀になつた」とあるから、この頃ほとんど絶えてしまったのだろう。なぜ、このような事態になったのか?
(1)中菓子の進出
江戸時代以来菓子業界は、虎屋の羊羹に代表される進物用の上物菓子と荷売りの花林糖に代表される家庭向けの駄菓子とに勢力が二分されてきた。しかし、明治37年森永のキャラメルの登場をきっかけに、「駄菓子以上、上物菓子以下」の菓子「中菓子」が菓子業界の一角を占めるようになる。中菓子は、近代的な工場で大量に製造され、全国規模で販売された。明治41年には佐久間惣次郎商店が「サクマ式ドロップ」の製造を開始するなど、明治末から大正にかけて今日見るような菓子メーカーが次々に創業されている。中菓子は日々家庭で食べられる菓子であり、中菓子の進出は即ち駄菓子の衰退をもたらす。辻占紙片を添えた駄菓子も、相当な打撃を受けたと思われる。
(2)工場労働者への転身
日露戦争(明治37−8年)前後から日本の重工業化が始まり、工場労働者の需要が増大した。それまで「細民」に属していた辻占菓子の行商人も、労働者に転じて給与生活を送る機会が与えられた。
(3)「辻占占紙」の出現
次章で述べるが、明治43年頃東京にも辻占占紙を売る辻占売が現れるようになる。辻占占紙は、辻占文句を書いた紙片そのものが商品なので、売れ残っても菓子のように腐ることがない。もし辻占菓子同様町の人に買ってもらえるのなら、こちらの方がリスクが小さい。しかも軽いので子供でも容易に扱える。
以上のような理由から辻占菓子の行商人が姿を消していったと思われるが、辻占菓子そのものは依然として盛んで、大正に入っても新製品が続々と考案されている。