東京の辻占占紙 その1

tsujiurado2008-04-27

  • 東京の辻占占紙 その1

一方、東京における辻占占紙の出現時期ははっきりしていない。
明治13年の『團團珍聞第百五十三号』には、「一しきり東京にてあぶり出し恋の辻占と云ふもの流行せしが」という下りがあって、この時期東京で炙り出しの辻占が流行した事がわかる。しかし、この炙り出しは占紙であったのか、それとも紙片として辻占菓子に添えられていたのか、はっきりしない。明治42年の『俗語辞海』(東京・集文館)で「辻占」の項を見ると、「さまざまのはやりうた、または語句なぞをしるした、小さい紙を、菓子の中に挿んだもの」とあり、占紙についての言及はない。おそらくこの頃、東京では辻占占紙はまだ一般化していなかったのだろう。
東京では占紙を売る辻占売に先立って、占いの「自動販売機」が登場している。その経緯が、明治43年の『文芸倶楽部第十六巻第九号』に記されている。

人手の要らぬ商売(自働販売機の働き振り) 迎月子
(前略)清涼水の自働販売器は、先づ此位にして置いて次に之よりも由緒の古い、日露戦争当時に易断が適中したと云つて、上村中将からアルコール漬の鬼を送られたので有名となつてた芝愛宕下金水堂の自働易断器の話に移る。
清涼水と易断では鳥渡権衡が取れかねるやうだが、堂主も今では此易断器が純営業的のものになつた事を自認して居る。尤も堂主は其以前気力が余り旺盛でないと云ふ点から、日々の易断を十五人限りと定めて、其余の依頼者は悉く拒絶して居た。併し、折角来訪する依頼者を日々無下に帰らせるのも気の毒と思つて、自働易断器の発明に腐心し、三十六年の春出来上つたのは、心易決断力と称する易断の印刷物を、五十本の筮竹に象つて、五十区画ある円形の器に挿んで、上から一銭銅貨を投込めば、下の口から密封した易断書が一つ一つ現はれる仕組で、昨今市中の辻々に心易決断力と記した赤箱の掛けてあるものがそれなのだ。で、最初易断書を機器に挿入するには、易の六十四卦に象つて、五十枚宛六十四組三千二百枚を、神前に供へて祝詞を上げ、之も易理に割当て、造られた、抽籤器様の器へ容れて攪乱して一枚宛振出したのを五十枚毎に一組とするので、夫れも最初は、自働機の少数を知己の許へ廻して、実際の効果を確めてから、世に出したと云う事だ。
其後此自働易断の評判の可いのに連れて偽物が続出する。訴訟も起る。結局三十九年中に山田式自働機と命名して特許を受けた。昨今でも「天運」と称するもの、「サノサ節」と称へて箱の表面に編笠を被つた女を描いて、サノサ節調に造つた易断の現はれるもの、外に五六の偽物が行はれて居るが、堂主は自己の易断の確実なるを信じて、敢て夫等と争はないと自負して居る。現に山田式の自働易断機は、東京の二百余個をはじめとして、全国到る所の都市、大連、布哇迄も輸出されて、今では総数二千余個に達して、東京に次では、布哇、大連、内地で北海道が最も多く、其中でも布哇へは銀座の某商会の手で、六月十五日の便船で、第四回目の十二個が送られた。
布哇、大連、北海道などの殖民地的の方面に需要の多いのは、畢竟在留人が折に触れては懐郷の念禁じ難き、悶々の情に解決を与へて、一時の慰安を求めやうとするが為めで、市中では、必定多かるべく考へられる花柳界に、反つて需要が少なく、寧ろ真面目な商家向に多い。花柳界に少ないのは、一方から観れば、昼間は彼等の身体に暇があるので、直接売ト者の門を叩くのと、一銭のト占などを見ては、芸者の沽券が下ると云ふ妙な虚栄心から起るのだが、最も需要の多いのは博徒社会、殊にチーハーの売買が盛に行はれた頃で、自働易断で勝利を得たから、今度は大袈裟に遣る了簡だと云つて、直接堂主に易断を依頼に来た手合も少なくなかつたさうだ。其外全く需要があるまいと考へられる、中流以上の婦人界に歓迎されて居るのは鳥渡かわつた現象だが、之は自身易者の門を潜れば、家名に係はると云ふやうな、下層の人々の鳥渡想像の及ばない遠慮から、夜分人目を忍んで自分で自働器の前に立つに至るので、いづれも夫々人情の機微を現はして居るから面白い。
こんな始末で、金水堂からは、配付してある自働機に対して、毎月一萬八千乃至三萬前後の易断書を売渡すが、之は清涼水と反対で、毎年秋口から春先迄需要が多く、夏場は最も其数が少ない。冬場でも、秋と春との、兎角に人心の動揺のはなはだしい時が最も多く、十二月一月の酷寒には、比較的需要が少ないそして自働機は一個が九圓五十銭で、夜間燈火を点ずる仕掛けのものは三十銭高だが、機器を買入れた向へは、一銭の易断書を五厘に割引する。結局五割の利益を見る事が出来るので、大抵の場所では三ヶ月も掛けて置けば、機械代は取上げる事が出来るさうだ。尤も自働機を買入れる事の出来ない向へは、無料で貸与するが、之に対しては易断書を八厘に割引するだけだ。で、同じ人手の要らぬ商売でも、清涼水と易断では、収益に格段の相違があるが、清涼水は夏場の売盛る頃などは、日々新しく造らねば、変味の惧れがある。時には見込が外れて、拵らへた丈売れぬやうな事があつて、滅入が立つ。易断は利益の薄い代り其心配はない訳だ。(以下略。一部漢字をかなに書き換える)

参考までに、山田式自働機と思われる装置の特許資料を示す。

「自働販売機」(特許第11564号)
出願:明治39年12月17日  特許:明治40年2月1日
東京市芝区愛宕下町1丁目4番地 山田廣吉
(図面は右上の画像参照)

易断の印刷物に過ぎない「心易決断力」が商品として成功した背景には、市民の金水堂に対する信頼があった。上村中将の故事にいては不明だが、金水堂の易断が正確でしかも1日15人しか観てもらえないとなれば、堂主による易断の稀少性は高まる。その易断が占紙といった形で1つ1銭で手軽に入手できるようになるのだから、自働機が人気になったのも当然だ。その後現れた偽物・追随者の中に「サノサ節」の占紙が紹介されているが、自働機間の競争激化によって占紙に娯楽性を取り入れる必要が出てきたのだろう。この易断自働機の普及によって「占いの占紙に対して対価を支払う」という習慣が東京市民に行き渡り、これを前提に、菓子のついていない辻占占紙が販売されるようになったのではないかと思う。