平凡社東洋文庫608『柴田収蔵日記2』に辻占昆布と辻占本(占書)らしきものに関する記述がありましたので紹介します。柴田収蔵(1820−1859)は新潟・佐渡出身の洋学者で身の回りの出来事や金銭の出入りを記録していましたが、嘉永3年(1850)に書かれた『庚戌日記』に「(五月)二十六日 三拾弐文 辻占昆布 池之端」という下りがあります。(諸経費 P.263)この日柴田は留学先の江戸の洋学塾(伊東玄朴の象先堂)の仲間と湯島天神近辺を散策し、池之端で買い物したり本屋で本を見たりしています。辻占昆布購入の経緯についての記録はありませんが、32文分というのは一人で食べるには多過ぎる量なので塾生達で食べたのかもしれません。辻占昆布は関西の昆布文化を背景にした菓子ですが、北前船が通る佐渡出身の柴田にとっては身近なものだったのでしょう。既にこの時期江戸にも入っていたようです。ただ販売の形態が行商(辻占売)によるものなのか、それとも店舗売だったのかはここからはわかりません。(日記本編 P.197)
また翌月の六月十四日には両国の米沢町の夜店で「辻占模様」を100文で購入しています。(諸経費 P.265)日記によると「両国広小路にて春画本を買ふ」(日記本編 P.202)という記述があり、諸経費には「辻占模様」の他に品名のわからない72文分の支払が記録されています。おそらく、春画本は72文だったのでしょう。それより高い辻占模様がどのようなものだったか詳述はありませんが、当時の錦絵の相場は24、5文〜30文強*1といわれているので、辻占絵ではなく辻占本だったと思われます。

*1:大久保純一『浮世絵』(岩波新書(新赤版)1163)2008年、P.153