幕末維新の辻占煎餅名店めぐり2 「望月堂」

  • 幕末維新の辻占煎餅名店めぐり2 「望月堂」

第2回は、遠月堂から見て浅草橋を渡った反対側(横山町三丁目:現在の日本橋横山町)にあった「望月堂」という店を取り上げる。
淡島寒月は、『梵雲庵雑話』(平凡社、平成11年、P.123)で次のように述べている。

横山町三丁目に望月と云う菓子屋があって、初めて辻占を売出した。之れは柳橋の小越と云って頗る角兵衛獅子が旨い芸者が居たが、一寸変った女で、茶の湯もやれば生花もやるで、角兵衛獅子の小越と云えば知らないものはない位であった。それが芸者をやめて望月と云う菓子屋を出したのである。辻占は望月堂や森田で、森田は切山椒で有名であった。此の望月は辻占の元祖である。当時の辻占は役者の似顔や何かゞ色刷になって居て誠に綺麗なものであった。

望月堂に関する資料は他にないかと探索したところ、早稲田大学演劇博物館の『近世・近代風俗史料貼込帖』の中に望月堂の引札が2種納められていた。しかも、そのうちの1つは開店披露時のものだった。

開店御披露
今や曳らん望月のと。詠ぜし歌の夫(それ)ならで。弾(ひく)三弦(さみせん)の音に聴(きかれ)し。彼(かの)望月小悦なるもの。糸道わかぬ頃よりも。四ツ乳の皮の御恵厚く。三筋の糸の御引立に。鼓の音の人並と。なるさへ冥加に余れるを。去る稀人のお勧めに。望といふ字に思ひ寄。這度開ける甘味の別店。蒸菓子干菓子の両國も。世間に類の多き事。並び床と同じうして。何れも櫛の歯を挽繁盛。跡から開店規模立(だて)に。諸品を出精(みがく)に懼れては。七度鍍金も金磨も舌諸共に蔬(ござ)をや巻(まく)らん。初なる御仁は多分は御無用。御口中が曇らぬ鏡とは。五臓圓の言立めり。枇杷葉湯のせりふに似たれど。先(まづ)拭食(めしあがつ)ておためしあれ御口當りの甘きこと。圓朝が身振声色。柳橋が人情ばなしも。倶(とも)に扇を捨ぬべし。されど定価(あたへ)の下直(やす)かるは。並座料のよみ切も。半札出(いだし)て打出(しやぎり)やしつらん。よし客留の込合(こみあふ)とも。手疾く廻るに歎じては蝶之助が独楽も博多に走れり。復(また)御土産の折詰も。小鶴が足芸手軽にいたせど。聊(いささか)あしの疾かることなく。持方専一精吟(せいぎん)し。種類に目先を替ること。長うたれんの出囃子も。蝉丸連と転ずる如き。時々流行に新奇をつくせば。駒迎ひせる逢阪の。御逢の知己に風(ふい)聴ありて。しるもしらぬも御ひいきねがふ。女主(あるじ)に代りて御座附に。此三味線を弾(ひけ)るに(  )
山々亭有人
○御口取蒸菓子 しなじな
○辻占??自慢 (   )
○雅品両国八景 (   )
○端唄替うた辻占 新文句いろいろ
九月二十日店開き
當日(      )    横山町三丁目 望月堂製

読みづらい箇所はあえて空欄にしてあるが、雰囲気は伝わると思う。文中に出てくる三遊亭圓朝が襲名したのは、安政2年。麗々亭柳橋が三代目を襲名したのが、嘉永4年。独楽の曲芸師博多蝶之助が国芳によって『一流曲独楽 博多蝶之助』という題の錦絵に描かれるのが、弘化4年。(参照:「川添裕コレクション・見世物絵目録」http://www.rakugo.com/gallery/collection.html)江戸・両国橋詰の見世物で足芸女・花川小鶴が評判を取るのが、明治元年の春。(斉藤月岑『武江年表』)
更に、望月堂の店頭の様子を描いた錦絵『菓子屋店頭の図』(虎屋文庫所蔵)が二代国貞によって描かれたのが、明治元年。(参照:溝口政子さんのHPの『いとおかし』のコーナーより「錦絵の中の辻占菓子」http://www.m-mizoguti.com/ito/nisikie.html)以上のデータから、望月堂が開店したのは明治元年9月20日となる。錦絵中のお品書きと引札の内容が一致しているので、もしかするとこの錦絵は開店直後に描かれたのかもしれない。幕府が倒れて世の中が一変する中、小悦は男性相手の商売に見切りをつけて芸者を辞めたのだろう。
ところで、寒月は「望月は辻占の元祖である」と言っているが、遠月堂は弘化年間から辻占煎餅を売っているので、この発言は誤りである。また、小悦の事を「小越」と呼んでいることからも、望月堂に関する彼の記述は不確かなものだったと認めざるを得ない。