幕末維新の辻占煎餅名店めぐり3 「梅花亭森田」

  • 幕末維新の辻占煎餅名店めぐり3 「梅花亭森田」

第3回では望月堂から更に市中を南下して、大伝馬町三丁目(現在の日本橋大伝馬町)にあった「梅花亭森田」を取り上げる。
木村捨三の「続々商牌集 其二 遠月堂菓子店」では「大伝馬町の梅花亭」、淡島寒月の『梵雲庵雑話』では切山椒で有名であった「森田」と紹介されているが、いずれも同じ店である。
嘉永3年[1850]創業の老舗で、「元祖どら焼き」(発明されたのは明治期)の店として今日も続く名店だが、店舗はその後新川に移転している。
当時の引札(早稲田大学演劇博物館『近世・近代風俗史料貼込帖』に収録)にはこうある。

御祭礼の一番太鼓。名代の猿は俳優(わざおき)の街(ちまた)に名さへ因(ちなみ)ありて。土地の繁盛脇に増(まさ)り七福神の夷講には市村座の市の立(たち)。茲に大丸( )拍子木を聞。そも序開(ひらき)の開店より。御贔屓厚き御取立に。今立者(いまいつかど)の老舗となりし梅花亭の主人(おやかた)( )。兼(かね)るといひし梅寿(ばいじゆ)に等しく。蒸物打物古風(じだい)今様。極製並製(なんでも)出来る調法店今度本舞台三間の家居(やたい)を新たに建直し。御影に光る金襖に。見世棚を張替て。此売出の初日を急ぎ。欄間の襷とる間もなき。せわしき楽屋の早拵へ。伊達の御殿の干菓子を初め。佐野の饅頭寺子屋の。煎餅おこし有ふれたる。辻占までも新製なせば。鳴物の御誂へは更にもいはず。出這入唄の員(うず)しげく。しげしげ御用を願ふになん
河竹其水記
新菓 御風味菓子 吟製御干菓子五十品箱入値金一分極製御蒸菓子十八品箱入(以下略)
極製 御土産汁粉 白あん八重( )小豆あん笹折詰金弐朱より並あんしるこ金一朱より(以下略)
別品 三色切山椒        極製 御加増餅 一ツ三分
                     精製 大冨久  一ツ三十二銅(文)
新板 似顔辻占煎餅       上製 金つば  一ツ二十四銅(文)
来る霜月十五日売出し
当日廉景奉差上候        大伝馬町三丁目 梅花亭森田
(一部旧漢字を現漢字又は平仮名で表記)

新装開店のチラシといったところだが、「今立者(いまいつかど)の老舗となりし」という下りから、創業からある程度時間を置いて作られたと考えられる。梅花亭といえば嘉永6年にペリーが来航した際に「亜墨利加饅頭(アメリカまんじゅう)」を売り出して評判を取っているが、慶応元年秋の『歳盛記』にも「浅草御門 遠月辻占巻」と並んで「大伝三 アメリカまんぢう」が掲載されている。発売後12年間、この菓子は江戸市中の人々に賞味されていた。もし、この間に引札が作られれば、亜墨利加饅頭は絶対に載るだろう。しかし、それが載っていないということは、引札の制作時期は慶応元年秋より後ということにはならないか?
あと、文中に「有ふれたる。辻占までも」とあり、この頃辻占菓子は市中でよく見かける菓子だったことがわかる。また、お品書きに目を転じると「新板 似顔辻占煎餅」とあることから、梅花亭は遠月堂同様、役者絵の辻占紙片を使っていたことが読み取れる。木村捨三が「この店(遠月堂)に真似たるなり」と指摘したのは正しかったのだ。