東京の辻占売

  • 東京の辻占売

明治2、30年代の東京で「辻占売」と言えば、「辻占菓子の行商人」の事を指した。作家の三島霜川は『文芸界』で次のように紹介している。

辻占賣
固(もと)より是は露店とは謂はれぬ。けれども夜商人の一員としては、是非共紹介せねばならぬ資格のある者と謂はなければならぬ。先づ方々(かたがた)、其賣聲を聞かれよ。
『淡路島、通ふ千鳥、戀の辻占!』
如何に其聲の凄艶に、奈何に其歌は情緒あるものであらうか。其の多く徘徊するところは、重(おも)に遊郭若くは矢場、藝者町、待合のあるやうな町であるけれど、彼處の浮世小路、此處の裏通、または淋しい邸町(したまち)にも、此聲が聞かれるのである。其人はと謂へば、爺さんもある、婆さんもある、娘もあれば、男の子もある、内儀もあれば、稀には立派な男もあつて、先づ一定して居らぬ。其品はと謂へば、其聲と其歌に似ず、からお粗末なもので、新聞紙の袋に、豆またはかりん糖のやうなものを入れて、其に辻占を加へて、一袋が一銭から二銭、先づ以て資本と謂つては要らず、大提灯一つ垂下げて、箱を一つ首に掛ければ、支度が出来るといふのであるから、全て仕掛は簡単である。其で儲は、通例三拾銭から五拾銭、間が好いと七拾銭から一圓にならうといふのだから、子供や老人には適當な商賣と謂はなければならぬ。(一部漢字を平仮名で表記)[『文芸界第七号』(明治35年)の「夜の露店」より]

ここから、当時の辻占売の全体像が良くわかる。「稀には立派な男もあつて」という表現の裏には、辻占売は普通の成人男性がする職業ではないという認識があったことが読みとれる。三島霜川は、「夜の露店」の冒頭部分で、「露店商人は、全ての組織に就いて、世間一般の商人とは甚だしい相違がある。勿論彼等とても、商人の肩書のある者に違ないが、其生活其の動作、全ての点が、寧ろ労働者に近いかと思はれる。そこで彼等の身分といふものは、純然たる細民である」と、断じている。
明治22年2月2日付の『東京朝日新聞』は、寄席に来ていたヨカヨカ飴屋の親分が、噺家が「エー女氏なうして玉の輿に乗り男意気地なうして飴やおこしを売る」と言ったことに腹を立て食ってかかろうとした、と報じており、以前から世間ではこういう認識がされていたと思われる。それゆえ、男の辻占売に対しては好奇の目が向けられる。齋藤緑雨は、随筆『おぼえ帳』(明治30年)の中でこう記している。

町すこし隔てゝ辻占売の声、何とは知らずあはれの誘はるゝものなり、それなる小僧の江戸に出でゝ、一たび其声を聞きてより帰りて後も耳につきて忘られず、遂に主家を出奔し、人の命は五十年夢よりも淡路島、大路小路を通ふ千鳥の波のまにまに、浮世の海に何騒ぐらん恋の辻占売となりて、春はおぼろ秋はさやかの月に一しほ声張上げ、うれしきたよりの提灯かたげて、生涯を屹度だよのおたのしみに送りけるとかや。(一部旧漢字を現漢字で表記)

この話は子供の話で、時代も幕末のものか、明治のものか、判然としないが、明治21年7月15日付の『東京朝日新聞』には、正真正銘、若い男の辻占豆売が登場している。

よかよかの災難
頭の上に半台を載せ太鼓をたヽいてよかよかといふおもしろ可笑い歌をうたツて辻占豆を売てあるく若い男が一昨日の晩品川を流して橋むかふの貸座敷の前で例のよかよかを歌ひながら踊ツて居ると彼方の横町からばらばらと顕はれ出た七八人の若い衆は口々に「〆ツちまへ〆ツちまへ此の畜生なまいきに辻占売の癖に娼妓の機嫌ばかり取て居やアがる」と突然前後から打てかヽツて提灯も半台も辻占豆も乱離骨灰(らりこつぱい)にふツちらされよかよかは半死半生に悩まされたので巡行巡査のご厄介に成て漸やく一命を拾ツたといふが可愛がられて身のつまり此のよかよかが打擲されたも原はといへば烟管雨の妬みからだとの事その筋の方は吾(ご)用心吾用心(一部旧漢字を現漢字で表記)

娼妓に可愛がられて、袋叩きに逢うというのは余りに理不尽な話だが、『おぼえ帳』の小僧さんも、辻占売になって娼妓に可愛がられたのだろうか?