戦中・戦後の辻占菓子

  • 戦中・戦後の辻占菓子

第二次大戦中の昭和17か18年の元旦、辻占紙片の内容を気にしたアベックが易占家・田畑大有の許を訪れている。恵方?詣りの土産に買ったアラレの袋の中に「末は烏の鳴き別れ」とあったので、易で占ってほしいというものだったが、大有は旧知の2人を励ますために、「末のことは、また末のこととして、辻うらは、まァ、辻うらぐらいに考えて、川へでも流してしまいなさいよ」とお座なりのアドバイスを与えた。その後、彼氏は出征して2ヶ月も経たないうちに戦死し、2人は泣き別れになってしまったという。(参照:田畑大有『易占余話』文宣堂書店、昭和39年、P.7-13)戦時下に参道の土産店で辻占入りのアラレが売られていたのは意外だったが、『日曜研究家1号・2号・3号合本』(扶桑社、平成11年)のP.129を見ると、慰問袋に入っていたとおぼしき辻占紙片(表に「皇軍御慰問嬉しい辻占」、裏に都々逸の辻占判断)が紹介されているので、おかしい話ではない。
終戦直後の食糧難の時期を経て、消費者に心のゆとりが戻ってくると、娯楽的要素の強い辻占菓子も復活する。昭和24年頃、日本橋人形町の浜乃院が昆布松葉をおみくじのように結び、辻占紙片をしのばせた「縁結び辻占」という辻占昆布を発売している。昭和27年12月には、菓子とパン新聞社から出ている雑誌『菓子の友 第三巻第十二号』に、「御好みあげサービス辻占」という辻占尽が掲載された。欄外には「切断して使って下さい。御利用の方御注文下さいませ印刷して差上げます。商事部へ」とあり、菓子とパン新聞社による辻占尽の頒布が全国的に行われたもようだ。
しかし復活はわずかの間。昭和33年に売春防止法が施行されて赤線、遊郭が廃止されると、辻占菓子は大口の需要先を失う。また高度成長期を迎えると、解釈があいまいな辻占に代わり、判断が客観的に与えられる易や西洋占星術などに占いの人気が移っていった。そこで、大手の菓子メーカーが後者のカードを添えた菓子を売るようになり、辻占菓子の衰退に拍車をかけた。
幕末から戦前にかけて栄えた辻占菓子は、今日すっかりマイナーな存在となり、一部の地域でしかお目に掛かれなくなってしまった。今生き残っている辻占菓子が1日でも長く作り続けられるよう祈りつつ、辻占菓子の歴史の話はひとまず終わりとしたい。