乃木将軍と辻占売 その2
今越翁は、幼時辻占売をして家計を助け、長じては金箔職人となり、精進の結果、昭和41年に滋賀県の無形文化財第一号に指定された方です。(昭和49年3月没)
以下、今越翁の口述伝から辻占売の記述を抜粋して紹介します。*1
・加賀前田家で御殿の料理方を勤めていた祖父が明治維新を機に料理屋を開業、「御殿料理」と呼ばれて繁盛していた。
・祖父が亡くなり、後を継いでいた父が急病で明治21年9月に死亡。翌年正月には母が残った資産を金に換えて出奔してしまい、今越翁は6歳で祖母、弟、妹を養わなければならなくなった。
・住まいは以前店で働いていた人から一室を提供されたが、食費など生活費が必要なため翁は辻占売を始めた。
・辻占(おみくじのようなタイプ=辻占占紙か)は2個で1厘で仕入れ、棒飴、かんかん飴、松風やき、などと共に1個1厘で売った。
・呼び声は「辻占や飴棒ー」。胸に占紙と飴棒を入れた木箱を抱えていた。
・昼は魚の小売り歩き、夜は辻占占紙と飴棒売りをして毎日20銭を稼ぎ家族4人の暮らしを支えた。(もちろん学校など行っていない)
・地元では友達や顔見知りの人に見られてきまり悪い思いをするので、わざわざ遠くの町まで歩いて売りに行った。帰宅は毎晩11時か12時になった。
・明治24年3月18日の夜の事、道で乃木将軍に会う。将軍は翁の身の上話を聞いていたく感心し2円の入った紙包みを与えた。
・その時の人力車の車夫がやりとりを新聞社へ知らせ、記事となった。
・新聞記事を見た隣家の人が地元で商売するように勧め、地元の町内・遊廓などで占紙を売るようにしたところ、父の知り合いなどがかわいそうにと、10銭、20銭とお金を下さり、しばらくの間に相当なお金ができた。
この今越翁と乃木将軍のエピソードはその後昭和初年になって「乃木将軍と辻占売の少年」という題で講談、浪花節などを中心に脚色されて、様々なレコードが発売されました。(画像は天光軒満月『浪花節 乃木将軍と辻占売』(キリンレコード))
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昭和B級文化研究家の串間努さんから、明治38年2月発行の雑誌『婦人と子ども』(第五巻第二号)に「辻占のお菓子」という記事があるという情報をいただきました。
調べてみると東京盲唖学校の平岩学洋氏が辻占菓子の現状を憂えて、紙片の文句の改良を5ページにわたって訴えていました。その概要は以下の通り。
・辻占(紙片)は人を慰め楽しませて、一興を与えるために作られているが、その文句は一つとして碌な事は書いてい
ない。風俗上社会上差支えないもの、意味はそのままで言い回しを変えたものにしてもらいたい。
・辻占は子供にとって危険千万。道徳上の問題に影響する事頗る大。
・幼年児童は紙片の意味が分からず兄姉に尋ねるが、概して満足な答えが得られない。子供を善導できる答えを与
えるべきだが、道徳的に思わしくない文句の時はその場で文句をでっち上げて回答することも必要。
・文句の意味がわかる大きな子供に対しては誤魔化しができず、道徳上も生理上も刺激を与えることは必至。
・こんなつまらない菓子は子供に与えず、買わせず、目に触れさせず、幼児の時からこの類の菓子を買ったり食べた
りしてはいけないと習慣付ける事が必要。
・私は辻占の菓子を頭から駄目とは言わない。文句を教訓的なものに改良して、自然に子供を教育するために利用
すべきだ。
・社会改良の一環として商売第一の菓子会社へ教育関係者の働きかけを期待する。
今日残る辻占尽を見るとその後も艶っぽいものが作られ続けているので、辻占紙片の文句の改良は呼びかけで終わったようですが、キャラメルの中箱やガム鞘に豆知識を印刷するアイディアに通じるところがあって興味深く感じました。
八千代春の民俗行事〜オビシャとツジギリ〜
26日午後、八千代市立郷土博物館で開催された「平成25年度第5回やち博講座 八千代春の民俗行事〜オビシャとツジギリ〜」に行ってきました。市内のオビシャの紹介に1時間、ツジギリに30分という時間配分でしたが、由来から市内の現状まで濃密な解説がなされました。
ツジギリに関してはかつて14ヶ所の集落で行われていたのが、7ヶ所に半減。地域の繋がりの希薄化、生活スタイルの変化が原因との事。また、下高野で作られている藁蛇が十数年前からのもの(上高野のものを参考に制作開始)だと知って民俗行事の持つダイナミズムを改めて感じました。
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平凡社の東洋文庫608『柴田収蔵日記2』に辻占昆布と辻占本(占書)らしきものに関する記述がありましたので紹介します。柴田収蔵(1820−1859)は新潟・佐渡出身の洋学者で身の回りの出来事や金銭の出入りを記録していましたが、嘉永3年(1850)に書かれた『庚戌日記』に「(五月)二十六日 三拾弐文 辻占昆布 池之端」という下りがあります。(諸経費 P.263)この日柴田は留学先の江戸の洋学塾(伊東玄朴の象先堂)の仲間と湯島天神近辺を散策し、池之端で買い物したり本屋で本を見たりしています。辻占昆布購入の経緯についての記録はありませんが、32文分というのは一人で食べるには多過ぎる量なので塾生達で食べたのかもしれません。辻占昆布は関西の昆布文化を背景にした菓子ですが、北前船が通る佐渡出身の柴田にとっては身近なものだったのでしょう。既にこの時期江戸にも入っていたようです。ただ販売の形態が行商(辻占売)によるものなのか、それとも店舗売だったのかはここからはわかりません。(日記本編 P.197)
また翌月の六月十四日には両国の米沢町の夜店で「辻占模様」を100文で購入しています。(諸経費 P.265)日記によると「両国広小路にて春画本を買ふ」(日記本編 P.202)という記述があり、諸経費には「辻占模様」の他に品名のわからない72文分の支払が記録されています。おそらく、春画本は72文だったのでしょう。それより高い辻占模様がどのようなものだったか詳述はありませんが、当時の錦絵の相場は24、5文〜30文強*1といわれているので、辻占絵ではなく辻占本だったと思われます。